キュッ
台所の流しの水道が止められる。朝食の片付けを終えた鈴木は、いつの間にか死々若丸の姿が見えなくなっている事に気がついた。
別に 昨晩 大喧嘩したわけでも、特に思いつめた様子も無かったから、多分ふらりと散歩にでも行ったのだろうと判断した。共に暮らしているとはいえ束縛しあわない二人にはよくあることである。
そして鈴木は家事なり自分の趣味なりに時間を割く。それはいつもの光景だった。

いつもと違うことといえば…いつの間にこんなに春めいていたのだろう、と思わされる穏やかな陽気。

読書なんてしていた鈴木がふと時計を見上げると、いつの間にかお昼はとっくにすぎている。
(あれ…昼飯いらないのかな。)
今日は遠出でもしてるんだろうか?
本に栞を挟み、パタンと閉じて置いた。この話の続きも気になるのだが…それよりも、漂ってくる春のにおいが心を騒がす。死々若丸もどこかにいるであろう青い空に誘われて、鈴木もぶらりお散歩に出ることにした。

温い風
とりどり、そこかしこに輝く 赤、桃、青、白の色
柔らかい太陽

眩しい、人間界の春だ。
(まさか死々若、迷子になったんじゃないだろうな?)
ひとり脳内で冗談をいいながら目的地もなく歩む。


そこで出会った 異様なまでに美しい一角に魅かれる。 桜だ。
今が盛りと咲き誇る花
こんなに見事な桜の樹がここらにあったとは知らなかった。

と、
背後から強く風が一陣。しかしそれも暖かく心地よい。
その風に撫でられて舞い散る無数の桜花が、視界を真っ白に染めた。
あぁ、風情だなぁ なんて見とれていた鈴木の背が 急にゾクッとした。

白い嵐の中心に、現れたのは
桜に囲まれて立ち尽くしているのは
死々若丸

その姿が、あまりにも綺麗で。


言葉に詰まる鈴木に死々若丸の方も気がついた。「来たのか」とだけ声をかける。その声でやっと金縛りが解けたように、鈴木は一面の花筵にそっと腰をおろした。

舞い、止まない桜花絢爛。
死々若丸の髪も、服も、その白い欠片に全身まみれている。
「何時間も…ここで桜に見とれてたのか?」
ひらり、目の前に降りてきた一枚を捕らえようと手を伸ばす。
「…苛々していたところだ」
少し顔をしかめ、しかも困惑の色を漂わせる。意外な返答に、鈴木は花びらを掴みそこね逃がしてしまった。
「なんで、綺麗だろ」

「綺麗すぎる」

死々若丸は困惑の表情を強め、まぶしそうに白で埋め尽くされた空を見上げた。


この美しさはあまりにも清くて
真っ白に眩しくて
これが、光に焦がれる陣とか凍矢なら心から喜んだのかもしれない。しかし自分には

「似合うよ」

心を読んだかのようなタイミングの、しかも意に反する鈴木の言に驚き、死々若丸は更に苛立ちをあらわにした。

「似合わん!」
思わずムキになる。
「桜なら蔵馬のほうが似合うだろ」
「アレは植物ならなんでも似合うんだよ。」
確かに、それもある。とほだされつつ、死々若丸は改めて居心地の悪そうな顔をした。いや この桜吹雪の中は居心地はいいんだが、自分がここにいてもいいのか、というような…

どうやら美しい桜に感動を覚える自分に戸惑っているようだ。
やれやれ ほんとに何をするにも手間のかかる子だ
だが、そんなところがまた愛しい。


「桜の樹の下には死体が埋まっている」

穏やかに微笑んでいたその口から次に発せられたのはそんな台詞だった。
戸惑い揺れていた死々若丸の瞳が鈴木に向けられる。興味を得られた手応えを感じ、鈴木は先程とはまた違う笑みを注ぐ。
「まぁこれはただの、ナントカってヒトの小説の一説らしいけど…
 しかし桜は古来より霊験あらたかとされている。曰く付きの不穏な土地で、災いを抑えるために植えられるという咄も聞くぞ。」
今度はうまく受け止められた花弁を 掌で眺める。
「それにその美しさや香りがヒトの狂気を誘発するとも…。いろんな噂が絶えないが、まぁつまりそれだけ桜が広く親しまれているということ あ」
緩い風に掌の上のものをさらわれてしまった。ふたたび視線を死々若丸に戻すと、彼は改めてこの巨大な桜を見上げていた。

先程まではどうしようもなく遠く眩しく見えた桜が、何故だろうどこか恐ろしいような、 薄紅色の 散りゆく無数の命が 残酷にさえ思えてきた。


それがまたいいんだと思った。
桜と死々若丸。本当に見目麗しい二つの組み合わせはただの見た目の綺麗さだけでもこの上なく素晴らしい。
しかし、その この世のものとは思えない美しさが まこと素晴らしくあればある程、その奥に潜む陰を想うと深く妖しい魅力が増す。
「あんまりぼんやりしてるとお前も桜に取り込まれて埋まっちゃうぞ」
「フン、阿呆か。」
そう言う死々若丸の 無数の桜花が映りこむ瞳からは戸惑いが去り、いつもの強気で気高い色が戻っていた。

そして心から
「綺麗だな」
と。


やれやれ、はじめから素直に言ってくださいよ、若様。
鈴木はようよう一安心した。

お前は本当に綺麗なのだから
先程の花嵐の中のお前は 正直 なにかが乗り移ったんじゃないかと思うほど 綺麗だった
桜の精霊のようだなんて言ったら、俺が埋められてしまうから言わないけど…。

苦笑いの鈴木。いつまでも飽きることなく桜と戯れる死々若丸を、いつまでも 見守った。


今ぞ花時 花盛り。
面食いの死々若さんだけど、綺麗なだけじゃ駄目だと思うんです。
とかいってただ素直になれないだけなんです。
鈴木さんにはお見通しだよ…!